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更新日:2018.07.04

「ひとりはもうイヤ」
ホームレス経験者の女性がたどりついた安住の場所

当事者インタビュー:Hさん(女性・74歳)

#東京 #70代 #女性 #路上生活

女性ホームレスの存在

上野、新宿、池袋
いずれも東京を代表するターミナル駅であり、あなたも外出先や乗り換え駅として利用したことがあるのではないでしょうか。
そして一度は、駅周辺でホームレスを見かけたことがあるのではないでしょうか。


その時「男性かな」「女性かな」と思ったことは、ありますか?

厚生労働省の調査では、全国のホームレス数5,534人のうち、3.5%の196人が
女性であったと報告されています。
(ホームレスの実態に関する全国調査・平成29年1月)

都内の女性専用施設(無料低額宿泊所)に暮らすHさん(女性74歳)は、今まで生きてきて一番つらかったことは?という質問に、
「上野公園でのホームレス生活が一番つらかった」と答えました。

毎日私たちが忙しく通り過ぎているそのすぐそばに、生活に困窮し、やむなく過酷な路上生活を強いられている人たちがいます。

家族の離散

Hさんは福岡県で7人兄姉の5番目として生まれました。
小さい頃に不遇な事故により長兄を亡くしたことで、唯一の男子となった次兄が代わりに家を継ぐことになりました。
ところが、嫁いできた兄嫁が身勝手な人で、両親の年金や財産はすべて掌握されてしまい、姉妹たちは追い出されるかのように家を出ることになりました。

たまに姉妹たちが実家をおとずれても、資産をとり戻しにきたのでは、と迷惑がる始末で、Hさんを含めた5人の姉妹はみな実家から離れていってしまいました。

看取りの仕事

Hさんも、「もう家にはもどれない」と仕事を探して各地を転々。
新聞や求人広告を見ては、住込みのまかないの仕事を探し、働き続けました。

そのうち、滋賀県の彦根市で老人病院(現在でいう介護療養型医療施設)の看護助手の仕事に就くことができました。
資格の要らない看護助手とはいえ、看護師と同じように職員寮に住み、日勤・準夜勤・夜勤もこなすハードな毎日。
退院よりも、最期を見届ける方が圧倒的に多い終末期看護。
それでも、患者さんやご家族が喜んでくれることがいつしかHさんの生きがいになっていました。
「いろんな人の最期をみてきたから、延命治療についても考えさせられた」
「亡くなった人に、どうかゆっくり休んでくださいと声をかけていた」

たとえ会話もできない状態でも毎日お見舞いにくる家族もいれば、「洗濯物がたまっています」とこちらから電話をかけてやっと取りに来る家族もいる。 家族のかたちもいろいろだと感じたといいます。

妹と離れたくなかった

看護助手として忙しい毎日を送り、5年ほどがすぎた頃、すぐ下の妹が川崎にいることがわかり、連絡をとることができました。
休みの日にさっそく川崎まで出向き、30年前に実家を出てはじめて肉親との再会を果たしました。

仕事を辞める気は全然なかったし、ただ妹に会いたかっただけ。
そのつもりがいざ妹を目の前にすると、今まで閉じ込めていた家族への思いが強くなり
「妹と離れたくなかった」
あまりに衝動的ですが、そのまま妹の家に住むようになってしまい、これまで5年続けてきた看護助手の仕事へHさんが戻ることはありませんでした。

しかし妹宅には妹の同棲相手もいて、そう長くはいられない。
Hさんは1泊2,000円ほどの「女性専用サウナ」に拠点を移し、そこから新たな仕事に通うようになりました。
昼間は飲食店でアルバイトをし、夜はサウナの仮眠室の二段ベッドで休む、そんな不安定な生活が続きました。
「妹と一緒にいたいと思ってしまった」
「一時の感情であのとき看護助手を辞めてしまったのが間違いのもとだった」

年をとったら何もなかった

その後、妹とは距離をおき鉄道の軌道工事の飯場でまかないの仕事を見つけ、18年間住込みで働き続けましたが、定年を言い渡され解雇に。
中学を卒業してからというもの、仕事をさがして転々と九州から関東までやってきました。
「働けばたべていける」その一心で50年以上身を粉にして働き続けましたが、住居はおろか、退職金や年金もなく、残ったものといえばコツコツとためた100万円ほどの貯金だけ。
70歳を迎え「若い時はよかったけど、年をとったら何もなかった」といいます。

1カ月ほどは健康ランドで過ごしましたが、貯金は減る一方。
気晴らしに動物を見ようと向かった上野恩賜公園で、何人もの路上生活者を目にしました。
「自分だけじゃない」
「そんなに寒くないし野宿してみよう」
Hさんにとって一番つらかったホームレス生活のはじまりでした。

過酷な路上生活

東京文化会館の軒下にダンボールを引き、レジャーシートをかぶって暖をとり、ときどき公園の蛇口からでる冷たい水で体を洗って生活をしていました。
野外には虫が多く、蚊取り線香や虫よけを使っても体をさされてしまい、かゆみどめが手放せない。
現金をもっていると襲われてしまうため、スイカにチャージして肌身離さずもち、スイカを使ってコンビニで食料を調達しました。
お金が減ってくると大事にもっていた指輪などを売って現金に換えてまたチャージ。
ホームレスの中には悪い人もいて、親切なフリをして近寄ってくるなど常に危険と隣り合わせの毎日でした。
ある時は、夜中に爆弾低気圧がやってきてバケツをひっくり返したようなどしゃ降りにみまわれ、全身ズブ濡れになってしまいました。
「一時も気が休まらない」そんな生活を2か月続けた結果、ついにHさんは肺炎をおこしてしまいました。

ボランティアから福祉につながった

体調を崩したHさんを見かねた周囲のホームレスの人たちが、ボランティアがやっている健康相談につれていってくれました。
そこから福祉事務所に生活保護を申請し、施設に入所することになりました。

現在、Hさんは女性専用施設(都内の無料低額宿泊所)で生活しています。
「ここにきて本当にホッとした」
「住まわせてもらって体も治してもらって、今が一番幸せ」
高齢になってからずっと抱えていた両耳の難聴も、人工内耳を入れる手術を受け、
聞こえづらさは残りますが会話は十分できる状態になりました。
白内障と眼底出血による目の不調も手術により改善し、血圧や血糖値も薬でコントロールできています。
「はいずり回ってでも働かなきゃ生きてこられなかった」
「今は心配なことは何もない」と話します。

ひとりはもうイヤ

この施設では女性の施設長が常駐し、一人ひとりのニーズにあわせて、行政機関との連絡調整や通院の同行支援、入居者間のレクリエーションなども積極的に行っています。
入所してから2年が経つHさんに、これからアパートへの転宅希望があるかを聞いてみると、
「ひとりはもうイヤ、心細い」
いられる限りはここにいたいという言葉がかえってきました。

身の安全が保障され、雨風にさらされることもない。
衛生状態や栄養状態も確保されている。
そして何よりもひとりきりで生きぬいてきたHさんにとっては、安心して頼れる支援者や仲間がいることが大きいのです。

ホームレス生活を送る人のほとんどは社会的孤立状態にあります。
家族との関係が希薄であり、頼れる相手もなく、支援につながることができずにいます。

「いまは隣室の人の足音が聞こえるだけで安心できる」
「施設長がいつもみんなの気持ちに寄り添って接してくれるから」
ホームレス経験者のHさんにとって、ここがたどりついた安住の場所なのです。

文(聞き手):梅原仁美
取材日:2018.04.18

女性専用施設(無料低額宿泊所)

※名称・住所ともに非公開

[お問い合わせ]
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0120-346-850

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